2011年2月6日日曜日

口から耳まで、心臓から心臓までの果てしない距離

散文は、メモであり、作品としては若干洗練されたものではないのだ、と思いました。

いい悪いの話ではなく。

散文だけがもつ思考パターンの追跡可能性の高さ、それによる著者への同一化の高さ、なんかは、洗練されてない形式だから出来る事。

物語を敢えて散文的にばらす事も出来るから、洗練=高次という定義も誤謬がある話になってしまいますね。

何で突然こうかと言うと、散文的な文章を読んで思う所があったからです。

自分にとって価値のある作品が、他人に無価値であり得るように、作者にとって欠かせない大切な作品が、僕に無価値であり得るのか。と思ったからです。

それは散文的で、作者の抱いたイメージについていけなくて、だから仕舞いには物語ごと、僕には意味をなさない。と思ってしまった。

詩人であれ、小説家であれ、何であれ、書き手と読み手が意識できてないと意味をなさない。
読み手が書き手自身、つまり書かれたものがリマインダのようなものだった場合、読み手を一般化できないと、チラシの裏程の価値しかなさない。

自分自身よく陥ってると思います。

これはこれで戒めとして。

azrq、林

まぐれ当たりでもいいから真っ直ぐな言葉をぶつける方が、当然好きに決まってる。

それがないと始まらない、でもそれだけでいいとは思わない。

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