当然僕らを見にわざわざ来てくれた人はその一部で、そうでない人はたまたま見た、という事になろうと思うのですが、
大変有り難いです。
ただ、結論として、あれじゃ届かないよね。と僕は思いました。
脚色なしの三人称視点から見る機会って今まであまりなかった。
色々と足りない。
精進します。
林
だって分からない、知り得ない。
強く遠くに焦がれても、分からないもの相手にそれは少し逃避の色が強過ぎる。
価値のあるものは少ないように見えて、それはあなたが価値を見出すものだから、その少ない事はあなたの器に関わる見解。
だけどもつい、月を探すし、星がよく見えないかじっと上を向いて眺める。
それは分からないもの相手の所作でなく、綺麗なものにこころを曝す事。
悲鳴で食べた中華は絶品過ぎた。是非また行くべき。ライブ前日。
ねずみの死因が気になる。
東京外国語大学にて昆虫キッズ、ファーフランスなんかと一緒にやらせて頂きました。カタンさん素晴らしい。
何を聴いてほしいか、何を見て欲しいか、何を思うか、どういう眼で板の上に立つか、少なくとも自分は考えずにいられない。その価値観は強要できないけど。
林
どちらにせよ一度は壊れてしまった、けれど本心から親愛なるあなたとは、経緯や是非はこの際捨て置いても、結果として袂を分かつ事になったけれども、
いくら時間を掛けてでも、いずれ、あなたを壊したそれ以上の負荷に耐えうる人格を獲得するのが、現在の僕の決心です。
全てを飲み下す、とは、
接した全てに対して常に自分が一定の人格を保つ事ではなく、最終的にそれを確認して自らの強さを自覚する事ではなく、それは目的ではなく、
接した全てに出来るだけ誠実に向き合い、自ら善なりと思うところを目指し、結果として自らの礎の一部となるものを増やし、目的として全ての接した対象の苦労をより軽くし、過程のうちで心は常に影響され、揺れ、迷い、それでも目指す、それら一連の事象をさす。つもりでいます。
響き合わない魂などいくらもある。そもそも共感、分かり合うなどという事から、たとえひとりでもそんな相手に巡り会うなり努力して成し遂げるなり、ともかくそれが出来るという感覚がおこがましい。
その上で、分かっていても、せずにはいられない事もある。
だから僕は何を置いてもまず僕のために、壊れる訳にはいかない。諦める訳にはいかない。
投げかける問いも、提示する定理も、その真なるをいくら強く確信していてもなお、必ずいつもきれいに同じだけ自分に還ってくる。
まだまだ小さいものの言葉。