「大統領だって?私は目を閉じることさえ出来ればそれだけで幸せだよ。第三次世界大戦なんて想像も出来ないね」
ま、そういうと思ったがね。小さく息のこもった笑い声が聞こえたかと思うと、少し間が空いて、それからカチャンと音がした。ダヴィド・ベン=グリオンは諦め、静かに受話器を置いたらしかった。
老人は子供用の、おもちゃのようなチェアに座り、再びチェロの指板に指を添えた。
この、"なまけものの犬"と呼ばれた老人の病は、要するに脅迫的なまでの妄想癖なのであった。その幼少期にほとんど話さなかったのも、要は外の世界へと引きずり出されなくなかったからだ。それが心配性の父親に強要されて、ある日とうとう引き付けの発作を起こした。以後、このやっかいな持病とは生来の腐れ縁となったのである。もっとも今ではほとんど発作することもなくなったが。
弾き始めるとすぐに、「バィン」といって、弦が切れた。
霧雨の降る窓の外を見て、老人は微かに顔をしかめた。外に亡霊がいたからだ。そのとき、ふと「あの日のこと」を思い出したのだった。老人は窓枠をスクリーンにした電影を見ながら、静かに苦笑した。
水玉の蝶ネクタイに、背の低いグレンチェックのジャケットを着た亡霊は、陽ざしの傾いた黒板の前で、壊れた蓄音機のように繰り返し呟いていた。
──このとき、我々がやかんを「熱い」というよりもむしろ、「痛い」考えるのは勢いよくこの粒子が指先にぶつかるからであります。つまるところ、熱とは振動のことなのであります。固体は振動せぬために冷たく小さく、気体は大きく振動し、挙句に暴れまわるゆえ、熱くまた大きく体積を持つのであります。粒子が、大きく暴れまわっているのであります。それがぶつかれば、当然痛く感じるのであります
ここから我々が導き出す結論は、要するにエネルギーとは振動する力なのであります。世界はわずかな震えとその波により成り立っているのであります
音が空気という物質の振動であるように、光もまた粒子の振動であります。動物にはなぜ目と耳が存在するのか。それは目が粒子を認識する装置であるのに対し、耳が振動を認識する装置だからであります
かつてこの振動をして、プラトンに「影のような、目に見えない真実の世界のある」と言わしめたのでなかったか。偉大なるピュタゴラス氏が音楽家であったのは、波が作り出す真実の世界の存在に気づいてしまったからでなかったか
しかし粒子といいましても、我々は結局その正体を存じませぬ。分子、原子、原子核といった具合に、モナドの中にははたまた小さなモナドがあり、そのモナドの中にはさらにまた小さなモナドがありまして、科学がやがて進歩しても、"万物の父にして絶対の最小単位"など、見つけることはできないのであります
ならば──
「物の存在なんて証明できない。あるのは震えだけさ」
モーツァルトのレクイエムが鳴り響くと、老人の背筋に電流が走り、亡霊は悲鳴を上げて立ち去った。「der Depperte.(のろまな奴)」老人はつぶやいた。
「誰もぼくには付いてこれないんだ。チューリヒ、いや、ミュンヘンのころからさ。それでもぼくはファシストどもを熱狂させた、あの狂人の考えには同意しかねた。ツァラトゥストラほど人に関心のあるわけでもないんでね…私は目を閉じることさえ出来ればそれで十分なのだ…」
老人は立ち上がると、アメリカ式のうすいコーヒーを手に取り、暖炉の前に腰を下ろした。静かに目を閉じると、すぐ回想が始まった。みるみる内に、まぶたの裏に遥かなる明るい闇が広がっていく。あっという間に加速した。月をすり抜け、土星の輪をくぐりぬける。すぐに寒くなることはわかっていた。フロックコートの襟元に、ぐいとマフラーをしまいこんだ。冥王星の隣をぬけると、やがて本当に、何もなくなった。それでも加速を止める気なんててんでない。
残念ながら私は科学者だからね。先が長くないことくらい知っているが、神には興味ないんだよ。
この世界には巨大な白色矮星や、巨大なブラックホールがいくつもあって、その重力にあらがえず、期待した方向に飛べなかったとしても、それがいかほども問題だとは思わないさ。
私を非科学的な人間とお思いかね。しかしながら残念なことに、自分だけは思い通りに飛べると考えている人間こそ、もっとも非科学的な人間なのだ。
星と星とが愛の引力で引き合うとき、それを拒絶するのは、ばかみたいなことだ。脊椎は常に開いているべきなのだ。私は星の震えに共鳴するし、あまつさえ落ちていってもかまわない。ブラックホールの先は、必ず別の宇宙につながっているものだ。私はそこでまた、どこまでも飛ぶさ。
老人は目を瞑ったまま、右手をふらつかせた。一瞬だけバランスをくずしたが、その手はやがて、すぐそばの楽器に触れた。老人は3本しか弦のない、チェロを手に取ると、静かに弓を引いた。波動が空間を充たし、深く、低い倍音が、白い壁で仕切られた、8畳の空間を歪ませた。
最後の惑星ヘスペリデスを越えると、やがて何も見えなくなり、永遠の暗黒が広がった。すると今度はミュンヘンの空が見えた。映像はひっくりかえって、手袋を編む母親の姿が見えた。それから右へ倣えのあの連中が見えた。視界は暗転し、どこまでも飛んでいった。
壮大なシンフォニーが老人の身体をかけめぐっていた。細切れの皴を刻んだわき腹に、鳥肌がぷつぷつと粟立っていく。この生理学的運動やがて尾骶骨のあたりまで達し、老人はぶるりと震えた。脊椎は宇宙の信号をキャッチする、神が与えた電波塔に違いないと思った。
もしも
もしも世界は、ほんとうは音で出来ているとしたら
目に映る世界はにせもので
本当のせかいは音でできているせかいだとしたら
初めてチェロの音色をきいたあの日、老人の頭にふとそんな予感がよぎった。
†
それから3年後、老人は宇宙へと飛び立った。今度は妄想ではなく、本当に光になったのだった。
†
ところで今月はネストで2マンやります。
1時間近くの悲鳴初のロングセットやります。
昔の曲もやるから、ぜひ見に来てね。
■悲鳴×Paradise2マン
3/21(月・祝)
渋谷O-nest
出演:Paradise,悲鳴
open 18:30 / start 19:00
adv 2000 / door 2500 (+1drink)
Paradiseは、ぼくが今一番好きな同世代のバンドです。
公式HP: http://
myspace: http://
あまりに好き嫌いがはっきりしてしまう0点か満点しかつけられないようなライブも、すごくわかりやすいキャッチーなメロディにのった、彼らの純粋さも、ぜんぶんぜんぶ含めて大好きなバンドです。ぼくの中では、今2マンをやるなら彼らしかありえませんでした。
彼らとの決闘は3月21日(月・祝)。渋谷O-nestにて。そして彼らにとっては、この日は、二枚組ニューアルバム、N'importe ou hors du monde発売記念企画でもあるとのこと。
クウチュウ戦との紅白歌合戦との興奮が冷めやらぬ中ですが、ぜひ。
今年は次から次へとやりますよ。デアデビルのスエタカさんの占いによると、劇的に前に進める、変わる年らしいですから。
▼Paradise/海馬~Exultation is the going~
▼Paradise / Crazy Train
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