2010年9月27日月曜日

あしたとあさって!

ふってわいたようなホークス優勝をひとりで祝いながら
明日・明後日のライブ告知です!
(当然ホークスのユニフォーム着用で)

9.28(火)@下北沢THREE
OPEN/START 18:30/19:00
1500/2000(+1D)
【出演】
the Knowlus
タリバナサンバ
股下89
HOMM∃
悲鳴

☆悲鳴の出演は21:40〜の予定です。


9/29(水)@新宿Motion
OPEN/START 18:00/18:30 
2000/2000(+1D)
【出演】
サーティーン
imamon
うるせぇよ。
クウチュウ戦
オカープー
悲鳴

☆悲鳴の出演は20:50〜の予定です


2010年9月25日土曜日

病原菌

間違いを起こした事のないヒトなんていない。

こうなりたい、何が欲しい、希望を抱いたり願いを叶えたりする自由は、誰にでも与えられているもの。

だからなるべく、たくさんのものを見てたくさんの事を感じてそれを自分の一部にしていけたらと思う。

過去から学んだつもりのあなたの姿はあまりに痛々しかったから、知らなければ済んだのだけど少し首を突っ込む事にした。

という話。

星はまた少し僕を照らす。いつまでだかはよく分からない。

四ツ目。

2010年9月23日木曜日

太郎の話






「世の中に恋愛ほど暴力的なものはない」太郎は思った。 






太郎は今まで、自分に関わる全てのことを、自分の意志で決めてきた。 

ところが美は、こちらの意志などおかまいなしに、太郎の中に流れこんでくる。人間は恋愛すると、思考が停止するようにできているのだ。太郎はそれが嫌だった。 


そんなわけで、無意識の存在を認めない太郎の恋愛は畢竟マゾヒズムへ落ち込むこととなった。太郎にとっては、恋愛すること自体が敗北なのである。 


強く生きることを望んだ太郎は、一生一人のままであることを願った。 








「人は、人間死ぬときは一人だなどと世を儚むが、だとしたらおれはその瞬間のため、生きていけるに違いない」究極の孤独である死は、太郎にとって永遠の勝利であり、全能への導線なのである。 

だから太郎は童貞である。どれだけ女とやってもオナニーである太郎は、童貞である。 

ところが太郎は、恋をしてしまったのだ。太郎は思った。「人を受け入れるということは、ボロ雑巾のようになるということだ。破瓜の痛みとはこのようなものだろうか」 


太郎は美に自分が汚されるのを感じた。そうしてこのことは、自分が捧げる神に申し訳がないことだと思われた。 









14のころ、父親に反抗して伸ばし始めた太郎の前髪は、今では病的な白い頬に触れるほどになっていた。太郎は髪が作る柔らかいまばらな膜が、自分を危険な外界から守ってくれていることを感じていた。 

太郎にとって髪こそは、本当の顔であった。黒い絹糸の下に隠された病的な肉は、決して醜いわけではない。ただ、能面のようなのだ。肉より遥かに多くの表情を持つ髪は、太郎にとり、無口な能面の代弁者であった。 


太郎は白い茶碗に、ただあほらしく穴が五つばかり開いただけの埴輪のような顔を、それと気づかず愛していた。愛するがゆえ人に見せたくはないのである。 

さて太郎が膜の下で何をしたかと言えば、巨大な機械を作ることであった。 


それは各部が精密時計のように緻密な構造をしており、存在すること自体が危ういほど、脆い硝子のようであった。 


膜がなければ砂の城のようにたちまち崩れるこのジェンガの塔こそが、太郎の宝物であり、太郎を証明するものなのである。 

しかし美は突然やってくる。そして太郎の宝物を破壊していく。「女は鬼で、ここは賽の河原だ」太郎は美を憎んだ。 


太郎の、ただの内省的な思春期の少年と異なっていたところは、この途方もない機械が、いずれ現実になるに違いないことを、驚くほどの純粋さで信じ込んでいたことにある。 

それが実現しないのは、自分に力が足りないからに違いなかった。太郎は思った。「全て美は破壊されなければならぬ」 

だが同時にこうも思ったのである。「おれはいずれ美にめたくたに破壊されるだろう」 


それは太郎にとって、同じことなのである。美に刺し違えたい、その衝動だけが太郎を生へ突き動かしていた。二つはやがて止揚し、生は一つになるのだ。なぜって「死ぬときはひとり」なのだから。 

そんなわけで、太郎は今日も女の足を舐め、かと思えばなぶって喜んでいるのである。 


太郎にもささやかな夢はある。太郎はしばしば最も美しいものの前で自らのの悪を洗い浚い告白することを夢想した。赦されたいとか蔑まれたいとかではない。それは太郎にとり機械を補完するためのオートマチックな作業である。 


それを思うだけで、太郎のメカニックな悪意は起立し、血潮は波打った。きっと、膜は嵐の帆船のように張るだろう。そのとき太郎の機械は遥か緻密になるに違いないのである。 











しかし他人は受け入れるだろうか? 












包丁鍛冶であった父が、かつてこう言ったのを太郎はよく覚えている。「おまえがおまえになりたいなら、おまえになることを選ぶべきだ。おまえがおまえでないと思うのは、おまえであることを選ばなかったからだ」 


しかし母はそっとこう付け加えた。「父は自分を捏造するものよ」「そして女は自分を改竄するの」 


太郎の長い前髪がその小さなだんご鼻をくすぐるくらいになったころ、また父がこんなことを言った。「真の敬意は跪くことによって示されるべきでなく、打ち倒すことによってそうされるだろう」 

しかし母はこう言った。「敬意を力でしか示さない者は自分しか愛さないのだ」 



太郎は人の気持ちというよりは、自分の気持ちに鈍感なのだった。そしてそれを戻すには、人の気持ちに敏感になる以外方法はないのである。 



あるとき父は「誰にも理解できないことを為せ」と言った。 


しかし母は「人の役に立たないものなど意味がない」と言った。 


こうして太郎は、意味のわからないことをしては、いちいちそれを言い訳するのに余念がない、困った運動体となった。 





2010年9月20日月曜日

なんとなく

ドラムの練習をしてみた。

夜、ふらりと夜にスタジオに寄りセット450円のスティックを買って。
1時間でマメ2つ。暴れただけ。

次の日、前に古本屋で100円で買ったドラムの教本を電車の中で読む。
キックペダルの踏み方がどうもよくわからない。
やけにたくさん並ぶ連続写真、わかりにくいけど編集者の苦労が忍ばれる。
そういえば私もダブルダッチ(なわとびの競技)の本を作ったことがあるけど
あれは大変だったっけな…
(DVDつける予算がなかったんですよ)

足の写真を凝視するうちに
ドラマーの靴がカッコ悪すぎるのが気になって困る。
(ビジネスシューズと運動靴の間みたいなやつ。絶対に合皮)


練習2回目は疲れなかった。
1時間があっという間。
教本に載ってるパターン練習もしたしね。
私は器用でもないのに自己流に走りやすいから、
最初くらいは基本に忠実にやりたい。
センスもないのに雰囲気に酔ってるのは嫌い。



ある名門野球部では、レギュラー全員に全ポジションを体験する練習をさせるという。
立つところが違うと、ゲームの見え方が変わる。役割が変わる。
何より、自分以外のポジションの人の気持ちがわかるってのが
それをやらせる大きな理由だ。

なーんて、私はそんな意義を考えてなかったけど。

次の日ライブに行った私はライブ中ずーっと、ドラマーのキックに合わせて右足を踏んでいた。
これは疲れた!

2010年9月18日土曜日

独善的生

人は分かり合えない代わりに、分かり合えない事に基づいた行動をとる事ができる。

出来ない事は出来ないと、言い切るのはたやすくて、諦めてしまうのは、どんなに惜しいと自分で考えていたにしても、自らの意志で手放したその瞬間の痛みを越える事は、きっとそうない。

出来ないと言うくせにやめないから苦しいのだし、分からないと言うくせに分かろうとするから苦しい。

分かったと言ってしまえる人間と、分かるつもりのない人間だけは、少なくともその苦しみからは解放されているように、僕には見える。

思い遣りは、独善。僕があなたの全てを分かるなんて有り得ない。同じように、あなたが僕の全てを分かるなんて反吐が出る。

偽善だと、言いたければ仕方ない。言われて気持ちのいいものではないけれど、思ってしまうのを止める事は出来ないし、間違ってるなんて勿論言わない。

顔の見える相手には、出来るだけ誠意ある対応を。そうでない相手には、自分が何なのか出来るだけ伝える努力を。

僕が嘘をつくのと、僕が言う事を胡散臭いと感じるのははっきりと違う。


希望は死に至る病かも知れない。けれど絶望は即ち死を意味すると感じる。

だから少なくとも、懊悩とうまく付き合えるようになりたいと思う。

独善的生しか進むべき道を見いだせない以上、独善的生である事にだれよりも疑問符を突きつけ、謙虚に努力を続けていられるようになりたい。

ravenadoresalazrq.

azrqより四ツ目へ。

2010年9月16日木曜日

トラウマトライアスロン

言ったことが思ったことと同じように伝わらなかったことはよくある。
僕から出た線とあなたから出た線が一本に繋がることは無いから、せめて僕とあなたの4人の中で、伝え合うことを諦めず続けよう。執念が無ければアウト~だし、まずそれを持てば、なんとか出来ると信じたい。
ここまで話すと大抵面倒臭がられてしまう。

これに匹敵するパワーで向き合ってくる神々しい人とのやりとりは、凄く刺激的だ。もしかしたら、線が一本に繋がるんじゃないか、と期待したくなるほどに。投げ合いでなくその喜びのことを、コミュニケーションと呼ぶのかもしれない。

日付変わって2010年9月16日。
決まった光は刻刻と開く。
                                    hemay kawase

2010年9月15日水曜日

円環













衝突、乱調、回転、融合、








動脈と、静脈を、ぐるぐる。回ると身体が動く。全ての始まり。




お金も、ぐるぐる。セックスもぐるぐる。武術は、2つの領域がぐるぐるして奏でる音楽。




知識は、言葉をぐるぐるさせて生まれた生命(本より人、人より自然の方がいい気がする)


ぐるぐるしなくなったら、みんな死んでいる。だから、身体中を血がかけめぐるように、外の世界と自分が、区別なくぐるぐるしだしたら、どこにも重心が無くなって、何でもできる。 


自然との私の間に、100も1000も円環ができて、その全てがぐるぐるしてぼくの重心を動かしたら、だれもぼくの動きを読めないし、しかも一番自然な動きかもしれない、




バンドの中を音がぐるぐる、客とステージを、熱がぐるぐる、ぼくの中を、血がぐるぐる これね。この3つの回転エネルギーで、痙攣、くる。 




食欲は、私と自然の循環、性欲は、私とあなたの循環、睡眠は、私と無意識の循環。貨幣は、人間が自然を模造した循環システム。




循環を引き起こすものはなんだろう。貨幣の根源的な意味に気づいた野性の思想家も、それには応えなかった。ただ誰かが、そこに贈り物を置いたのだと言うだけ。
















目の前の食にだけ、集中して、食べるという経験を、ここのところずっと続けている。


同僚に困った顔をされながらも、2人で来た定食屋で、ただ黙々黙々と、箸を口に運び続ける。


毎日わずかながら舌が研ぎ澄まされていくのを感じている。


それがそこにあると感じるだけで、唾液が溢れ、口が熱くなり、全神経が興奮して、欲望し始める。


アナーキー吉田は、昔日記で、食べることを指し「あれほどまでに熱烈に他者を欲することなんてあるだろうか」と呟いていた。全く同感だ。




26年間生きていて、今頃ようやく米がどんな味だったのかを知る。恥ずかしい。




人はよく、神が与えられた食べ物へ、感謝するということを言うが、ぼくのはそれとは少し違う。もちろん美食の類とは180度違う。




ぼくにとって食事は、宗教というより、むしろきわめてエロティックな経験だ。




ただし相手(食べられるもの)に敬意を示すという面においては似ている。




飽食が我々からこの鋭利な味覚を奪ったのだとしたら、人間は本当に大事なものを失ったのだという気がする。


きっと、集中して食べることができない人は、愛撫するのも下手な気がする。口だけで食べる人は、ペニスだけでセックスする気がする。そうじゃないだろうということを、言いたい。




米は甘い。いや、全ての食べ物は、実は甘い。




嘘だと思ったら、試したらいい。すると、すぐに味付けが強烈過ぎることに気づくだろう。量も多すぎて、わけがわからなくなることも思いはじめるに違いない。






茶碗八分目の飯に、同じくらいの味噌汁、ししゃも2匹、前菜あれば、実は十分なのだ。(というより、少なくともぼくには、修行が足りないらしく、それ以上はわけがわからない)




全神経を集中すれば、その全てを身体が生かしきるから、それで十分。




食べられるものが、心から欲されたとき、口から脊椎を通って臍の少し下を抜けるように、エネルギーが美しい円弧を描いていく。




その円弧はどこへ向かうのか。海をめぐって、風を舞い、やがてまた口に戻るに違いない。円環になっている。




全てはどれだけ美しい円環を描けるかにかかっている。




エネルギーの行き先が、身体を通り、地球をめぐって、再びどうやって口に入ってくるのかさえはっきりしていれば、環境問題なんか全て解決するんじゃないのか。
















呼吸も同じくらい大事だ。空気もまた、甘い。


嘘だと思うなら、試しているがいい。


ただ、吸って吐くことだけに30分程度集中したら、すぐにわかる。


鼻と肺と地球の循環を、試してみるがいい。










円の道筋が決まっていても、美しく回転しなければだめだ。ガタガタした円じゃ、早く回らない。


毎日同じ時間に起き、食べ、練り、寝ることを繰り返すと、あるときターボがかかる。スムーズで美しい円が描けたのだ。ライブで神懸かるには、これ以外方法は、ない。(これは経験論)




そもそもの音楽が円環だ。楽譜は数直線だから、迷うが、ぼくには円環に見える。ぐるぐる回って、少しずつ変化してゆく。回転はやがて激流となり、遠心力が引力すれすれで暴走する。モグワイみたいだ。




バランスが崩れてて、引力が負けたら、どこか果てまで飛んでいってしまう。そんなとき、ロックミュージシャンは死んじゃうのかな。










電子が陽子をぐるぐる。


地球が太陽をぐるぐる。


































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2010年9月13日月曜日

カナブンと私

「背中に虫がついてますよ」と言われた。
だれかが取ってくれようとするが、脚が服の繊維にひっかかっているのか取れないらしい。

そいつは背中から肩へよじ登ってきて、腕をくだってきた。
緑色の美しい、カナブンである。
腕を伝い下りて、手の甲に止まる。指先まで行ってはまた戻ったり。
なんだか、なつかれている。

飛んでいこうとしないのは、どこか痛めているのかも?
そのまま手の上を歩かせておく。
だんだんかわいくなってくる。

Y君が「前世のパートナーかもしれないですよ」などと言う。
やめい!ますます情が移るじゃないか。
背中にキスをした。
おとなしい。

「おうちの子になるか?」と訊く。
もちろん無言。

しかし、こういう……野生児的な虫を飼うのって難しそうだなあ。
飼い方、どこかに載っているのかしら?
そういえば前にコクゾウムシを飼おうとして失敗したっけ。
コクゾウムシというのは、米を食べる虫である。
米粒に入りこんだりしている、小さな小さな茶褐色の虫。
それを米びつの中に見つけたとき、ふと飼ってやろうかと思い、
米を少量入れた小びんに入れてみたのだがすぐ死んでしまった。
私が見つけるまではのびのび生きてたのに
飼おうとするや死んでしまうとはなんなんだ、と少し憤慨した。

カナブンはそれから1時間近く、
打ち上げの席でも私の腕の上にいた。
だれかが名前をつけてはと言ったが、それはだめだと思う。
名前をつけたら、本当に好きになってしまう。

カナブンは不意に、羽を広げて飛んでいった。
しばらく高架下の蛍光灯の真下を飛び回っていたそいつに、
同席のみんなも手を振っていた。

2010年9月11日土曜日

コーマ、祈り

お前が闇を見つめる時、闇も等しくお前を見つめる。

僕が初めてこの言い回しを目にしたのは、漫画版のナウシカでした。

本当はもう少し由緒ある格言だったんですね。


それにしても、的を得ているようで、全くの詭弁のように思います。


言葉なんて何でもそうですけど。

でもそれだけに去来する思念も多いもので。


同じように、よく感じる事。話をする以上、もっと密な関係になるにしても、それは話をしたその時には既に、精神を交感する事なので、疲れもするし、助かりもする。有り難くもあれば、迷惑でもあり得る。

会話でさえ、こう感じずにいられない。
別に他人を恐怖した覚えは一度もない。
けれど、大変な事だといつも感じている。
人見知りというのとは違うと思う。神聖ないとなみなのだという気持ちがある。


言葉を交わすという事は、こころのありようを見せるという事、それをお互いが、干渉し交感し影響し合いながら行うという事。

ひどく、人を選んでしまう。
きっとそれと同じだけ、遠巻きにされてきたのだと思う。

望むものを、手に入れる場があるのだと思う。

僕は強くそれを思っていただろうか。
それはひどく個人的なものだから、


でももう少しで、少なくとも今の自分の中にある世界の、骨組み位は、


消えてしまっても構わないので、存在は、否定できないのだから、今もこの先も過去も失えるように、


いつから自分を貶める癖がついたんだろう。それは安寧を、甘えを、自らに許す術なのに。

素直に理想を描けばいい。目が曇っているのなら、澄むようにまた感じる事から始めればいい。

2010年9月8日水曜日

まんこに満ち満ちてゆく

満腔は、まんこの意ではなく、「体じゅう」という意味だ。 

しかしまんこの語源は、おそらく満腔だろう。 



あなに満ちて、満腔と書く。満腔に満ち満ちてゆくとは、全身に染み入る、という意味だ。 

この感覚を大事にしたい。 




内田樹の説話に、こんなものがあった。 

駒方でどじょうを食べたとき、斜め先にすわっていた男が、ひとりでどぜう鍋と、燗を飲んでいたが、この動きがあまりに美しく驚いた。 

自分は武道を始めたばかりだったので、奥義を窮めるとはこのようなことかと考えた。 

しかし、どじょうと猪口相手に、奥義を窮めるとはどういうことか、よくわからない。 

どじょうをつまんだ箸先は、美しく牛蒡を取り、七味と山椒をかけ、口に運ばれていく。そこに何一つ無駄がないように思われた。 


30年ばかりそのことを考えていたが、最近ようやくわかったような気がした。 

風流なこの男は、数百円足らずのどじょう鍋の愉悦を、全細胞で味わっていたに違いない。 




と、そういう話だ。 





たとえば、トレーニングをするとき、 


「ああ、今ここの筋肉を使っているのだな」 


と意識することは、とても大事である。 



そうするのとしないのでは、効果がまるで変わってきてしまうという。 





同じ理由で、ぼくは、家でご飯を食べるとき、しゃべらない。 

昔の人が、食事のときしゃべらないと言ったのは、よくわかる。 

全身に、満ち満ちていく感覚である。 




栄養などという狭量な知見はどうでもよいが、おそらく、栄養の摂取率も驚くほど違うはずである。 





歌うときも同じである。 


リズムや、音色といった、基礎の上に、満ちるように歌わなければならない。 

塗り残しがなく、丁寧に端っこまで満たし切るための、練習である。 


歌が音楽という身体(しんたい)の、隅々まで満ちていく。 


きちんと、やるということである。 






こんなことを言うのも、今言ったことこそぼくがもっとも苦手としていることだからだ。 


おそらく、これを読んでいる誰よりもぼくが一番へたくそだろう。 

たぶんぼくがギターをヘタなのも、走るのが異常なほど遅いのも、こういうことに起因する。 


自意識が肥大化して、身体からのメッセージを、すぐに聞き落としてしまう。 


身体は、「こう動かせばもっと簡単だよ」と、何度もメッセージを発しているにもかかわらず、強情な精神が徹底的に拒否するのだ。「おれはこうしたいんだから」 



普通の人よりちょうど26年ほど遅れているぼくには、飯を食うことすら修行である。 







歌をうたうとき、どうして同じ快楽でありながら、勃起することがないのだろう。 



おそらく、歌と勃起は正反対の身体表現である。 

勃起は緊張であり、魂の硬化、極地化だ。 

ところが歌は弛緩と共鳴である。 





むしろ、まんこに満ち満ちていく感覚が近いのだろう。 


強情な自分を捨て去り、全身であなたを感じ取り、受け入れる、多幸感に包まれることである。