2010年9月8日水曜日

まんこに満ち満ちてゆく

満腔は、まんこの意ではなく、「体じゅう」という意味だ。 

しかしまんこの語源は、おそらく満腔だろう。 



あなに満ちて、満腔と書く。満腔に満ち満ちてゆくとは、全身に染み入る、という意味だ。 

この感覚を大事にしたい。 




内田樹の説話に、こんなものがあった。 

駒方でどじょうを食べたとき、斜め先にすわっていた男が、ひとりでどぜう鍋と、燗を飲んでいたが、この動きがあまりに美しく驚いた。 

自分は武道を始めたばかりだったので、奥義を窮めるとはこのようなことかと考えた。 

しかし、どじょうと猪口相手に、奥義を窮めるとはどういうことか、よくわからない。 

どじょうをつまんだ箸先は、美しく牛蒡を取り、七味と山椒をかけ、口に運ばれていく。そこに何一つ無駄がないように思われた。 


30年ばかりそのことを考えていたが、最近ようやくわかったような気がした。 

風流なこの男は、数百円足らずのどじょう鍋の愉悦を、全細胞で味わっていたに違いない。 




と、そういう話だ。 





たとえば、トレーニングをするとき、 


「ああ、今ここの筋肉を使っているのだな」 


と意識することは、とても大事である。 



そうするのとしないのでは、効果がまるで変わってきてしまうという。 





同じ理由で、ぼくは、家でご飯を食べるとき、しゃべらない。 

昔の人が、食事のときしゃべらないと言ったのは、よくわかる。 

全身に、満ち満ちていく感覚である。 




栄養などという狭量な知見はどうでもよいが、おそらく、栄養の摂取率も驚くほど違うはずである。 





歌うときも同じである。 


リズムや、音色といった、基礎の上に、満ちるように歌わなければならない。 

塗り残しがなく、丁寧に端っこまで満たし切るための、練習である。 


歌が音楽という身体(しんたい)の、隅々まで満ちていく。 


きちんと、やるということである。 






こんなことを言うのも、今言ったことこそぼくがもっとも苦手としていることだからだ。 


おそらく、これを読んでいる誰よりもぼくが一番へたくそだろう。 

たぶんぼくがギターをヘタなのも、走るのが異常なほど遅いのも、こういうことに起因する。 


自意識が肥大化して、身体からのメッセージを、すぐに聞き落としてしまう。 


身体は、「こう動かせばもっと簡単だよ」と、何度もメッセージを発しているにもかかわらず、強情な精神が徹底的に拒否するのだ。「おれはこうしたいんだから」 



普通の人よりちょうど26年ほど遅れているぼくには、飯を食うことすら修行である。 







歌をうたうとき、どうして同じ快楽でありながら、勃起することがないのだろう。 



おそらく、歌と勃起は正反対の身体表現である。 

勃起は緊張であり、魂の硬化、極地化だ。 

ところが歌は弛緩と共鳴である。 





むしろ、まんこに満ち満ちていく感覚が近いのだろう。 


強情な自分を捨て去り、全身であなたを感じ取り、受け入れる、多幸感に包まれることである。

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