満腔は、まんこの意ではなく、「体じゅう」という意味だ。
しかしまんこの語源は、おそらく満腔だろう。
あなに満ちて、満腔と書く。満腔に満ち満ちてゆくとは、全身に染み入る、という意味だ。
この感覚を大事にしたい。
内田樹の説話に、こんなものがあった。
駒方でどじょうを食べたとき、斜め先にすわっていた男が、ひとりでどぜう鍋と、燗を飲んでいたが、この動きがあまりに美しく驚いた。
自分は武道を始めたばかりだったので、奥義を窮めるとはこのようなことかと考えた。
しかし、どじょうと猪口相手に、奥義を窮めるとはどういうことか、よくわからない。
どじょうをつまんだ箸先は、美しく牛蒡を取り、七味と山椒をかけ、口に運ばれていく。そこに何一つ無駄がないように思われた。
30年ばかりそのことを考えていたが、最近ようやくわかったような気がした。
風流なこの男は、数百円足らずのどじょう鍋の愉悦を、全細胞で味わっていたに違いない。
と、そういう話だ。
たとえば、トレーニングをするとき、
「ああ、今ここの筋肉を使っているのだな」
と意識することは、とても大事である。
そうするのとしないのでは、効果がまるで変わってきてしまうという。
同じ理由で、ぼくは、家でご飯を食べるとき、しゃべらない。
昔の人が、食事のときしゃべらないと言ったのは、よくわかる。
全身に、満ち満ちていく感覚である。
栄養などという狭量な知見はどうでもよいが、おそらく、栄養の摂取率も驚くほど違うはずである。
歌うときも同じである。
リズムや、音色といった、基礎の上に、満ちるように歌わなければならない。
塗り残しがなく、丁寧に端っこまで満たし切るための、練習である。
歌が音楽という身体(しんたい)の、隅々まで満ちていく。
きちんと、やるということである。
こんなことを言うのも、今言ったことこそぼくがもっとも苦手としていることだからだ。
おそらく、これを読んでいる誰よりもぼくが一番へたくそだろう。
たぶんぼくがギターをヘタなのも、走るのが異常なほど遅いのも、こういうことに起因する。
自意識が肥大化して、身体からのメッセージを、すぐに聞き落としてしまう。
身体は、「こう動かせばもっと簡単だよ」と、何度もメッセージを発しているにもかかわらず、強情な精神が徹底的に拒否するのだ。「おれはこうしたいんだから」
普通の人よりちょうど26年ほど遅れているぼくには、飯を食うことすら修行である。
歌をうたうとき、どうして同じ快楽でありながら、勃起することがないのだろう。
おそらく、歌と勃起は正反対の身体表現である。
勃起は緊張であり、魂の硬化、極地化だ。
ところが歌は弛緩と共鳴である。
むしろ、まんこに満ち満ちていく感覚が近いのだろう。
強情な自分を捨て去り、全身であなたを感じ取り、受け入れる、多幸感に包まれることである。
0 件のコメント:
コメントを投稿