2010年9月23日木曜日

太郎の話






「世の中に恋愛ほど暴力的なものはない」太郎は思った。 






太郎は今まで、自分に関わる全てのことを、自分の意志で決めてきた。 

ところが美は、こちらの意志などおかまいなしに、太郎の中に流れこんでくる。人間は恋愛すると、思考が停止するようにできているのだ。太郎はそれが嫌だった。 


そんなわけで、無意識の存在を認めない太郎の恋愛は畢竟マゾヒズムへ落ち込むこととなった。太郎にとっては、恋愛すること自体が敗北なのである。 


強く生きることを望んだ太郎は、一生一人のままであることを願った。 








「人は、人間死ぬときは一人だなどと世を儚むが、だとしたらおれはその瞬間のため、生きていけるに違いない」究極の孤独である死は、太郎にとって永遠の勝利であり、全能への導線なのである。 

だから太郎は童貞である。どれだけ女とやってもオナニーである太郎は、童貞である。 

ところが太郎は、恋をしてしまったのだ。太郎は思った。「人を受け入れるということは、ボロ雑巾のようになるということだ。破瓜の痛みとはこのようなものだろうか」 


太郎は美に自分が汚されるのを感じた。そうしてこのことは、自分が捧げる神に申し訳がないことだと思われた。 









14のころ、父親に反抗して伸ばし始めた太郎の前髪は、今では病的な白い頬に触れるほどになっていた。太郎は髪が作る柔らかいまばらな膜が、自分を危険な外界から守ってくれていることを感じていた。 

太郎にとって髪こそは、本当の顔であった。黒い絹糸の下に隠された病的な肉は、決して醜いわけではない。ただ、能面のようなのだ。肉より遥かに多くの表情を持つ髪は、太郎にとり、無口な能面の代弁者であった。 


太郎は白い茶碗に、ただあほらしく穴が五つばかり開いただけの埴輪のような顔を、それと気づかず愛していた。愛するがゆえ人に見せたくはないのである。 

さて太郎が膜の下で何をしたかと言えば、巨大な機械を作ることであった。 


それは各部が精密時計のように緻密な構造をしており、存在すること自体が危ういほど、脆い硝子のようであった。 


膜がなければ砂の城のようにたちまち崩れるこのジェンガの塔こそが、太郎の宝物であり、太郎を証明するものなのである。 

しかし美は突然やってくる。そして太郎の宝物を破壊していく。「女は鬼で、ここは賽の河原だ」太郎は美を憎んだ。 


太郎の、ただの内省的な思春期の少年と異なっていたところは、この途方もない機械が、いずれ現実になるに違いないことを、驚くほどの純粋さで信じ込んでいたことにある。 

それが実現しないのは、自分に力が足りないからに違いなかった。太郎は思った。「全て美は破壊されなければならぬ」 

だが同時にこうも思ったのである。「おれはいずれ美にめたくたに破壊されるだろう」 


それは太郎にとって、同じことなのである。美に刺し違えたい、その衝動だけが太郎を生へ突き動かしていた。二つはやがて止揚し、生は一つになるのだ。なぜって「死ぬときはひとり」なのだから。 

そんなわけで、太郎は今日も女の足を舐め、かと思えばなぶって喜んでいるのである。 


太郎にもささやかな夢はある。太郎はしばしば最も美しいものの前で自らのの悪を洗い浚い告白することを夢想した。赦されたいとか蔑まれたいとかではない。それは太郎にとり機械を補完するためのオートマチックな作業である。 


それを思うだけで、太郎のメカニックな悪意は起立し、血潮は波打った。きっと、膜は嵐の帆船のように張るだろう。そのとき太郎の機械は遥か緻密になるに違いないのである。 











しかし他人は受け入れるだろうか? 












包丁鍛冶であった父が、かつてこう言ったのを太郎はよく覚えている。「おまえがおまえになりたいなら、おまえになることを選ぶべきだ。おまえがおまえでないと思うのは、おまえであることを選ばなかったからだ」 


しかし母はそっとこう付け加えた。「父は自分を捏造するものよ」「そして女は自分を改竄するの」 


太郎の長い前髪がその小さなだんご鼻をくすぐるくらいになったころ、また父がこんなことを言った。「真の敬意は跪くことによって示されるべきでなく、打ち倒すことによってそうされるだろう」 

しかし母はこう言った。「敬意を力でしか示さない者は自分しか愛さないのだ」 



太郎は人の気持ちというよりは、自分の気持ちに鈍感なのだった。そしてそれを戻すには、人の気持ちに敏感になる以外方法はないのである。 



あるとき父は「誰にも理解できないことを為せ」と言った。 


しかし母は「人の役に立たないものなど意味がない」と言った。 


こうして太郎は、意味のわからないことをしては、いちいちそれを言い訳するのに余念がない、困った運動体となった。 





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