2010年8月31日火曜日

君を壊すのは







こんばんわ、ガンディです。久々に日記らしい日記を書いてます。 
疲れていたかもしれません。 


最近は仕事をしながら、よく考えますが、考えをまとめず、まとめられずに暮らしている。 
それでいい(悪い)と思っている。 

音楽はsunとか聴いています。 



出社は11時なので、すいた地下鉄の中で、向かいの窓にすいすい飛んでいく白い小鳥のような光を見ながら、良いこと悪いことを考えています。 






考えるということが正しいことなのか、正しくないことなのか、よくわからずに、自分を煙に巻いて、書くことから離れていました。 


ぼくは、図工が大好きな子供でした。ただ無心に泥を捏ね、そこから自分の好きなように形を作り上げていくのが好きだったのです。 

粘土には無限の可能性があり、ぼくにはどんな形でも作れるような気がしていました。 

図工の時間、先生が「今日は恐竜を作りましょう」というと、ぼくはその先を聴かず、真っ先に粘土をこね始めていました。 

そして先生が説明を終えるころには、すっかり骨格を作り上げ、ディテールの製作にとりかかっている、そういう子供でした。 

これは果たして悪い癖かもしれません。 

だってぼくは未だに人の説明を早とちりする癖があります。 


先生は、ほとんど完成しかかったぼくの作品を見て言いました。 

「あら、よく出来ていますね、だけど今日作るのはトリケラトプスですよ」 

周囲を見回すと、ティラノサウルスを作っているのはぼくだけと、そういうわけです。 









南北線のホームには巨大な塀壁があり、これが線路と我々のいる場所を明確に隔てている。 

一枚のガラス板で、意識しなければどうということもないのですが、しかしこれが確かに人があちら側へ飛び込むのを防いでいた。 



無意識ののトンネルの中を鋼鉄の箱にがたがた揺られながら、窓外に現れる白い小鳥のような光の残像に、ぼくはぼくを一瞬だけ見ることができるような気がする。 


夜の海にボートで漕ぎ出たことがありますか。 

私は海辺の小さな町に住んでいましたから、そういうこともあった。何を間違ったか、嵐の夜にやった。ときどきそういう気の狂ったことをやる。たぶん満月のせいだろう。あるいはいつもイヤなことから逃げてばかりいるせいだろう。んなもんどっかでバランスとるように出来てんだよ! 


ボロい、桟橋ともいえない、コンクリートの陸地からつながれた板切れからオールで壁を小突くと、すぐに陸から離れた。そして「なるほど、これはもう戻らないな」と得心した。 

考えるまもなく沖合いへぐんぐん流されていく。しかし穏やかだ。嵐なのに月はきれいだ。たたきつける雨はシャワーのように暖かかった。 

しばらく行くと、少し離れた場所はときどき渦があるのに気づいた。これに引き込まれたら死ぬわけだ。夜の海は怖くて、これほど好きなものはない。ぼくは未だに夜、意味もなく隅田川を見に行くくらいなんだから。 

渦から飛び散るしぶきで、、小船に乗っているぼくには、ほほに当たる冷たさしか知ることしかできなかった。足元には、深く混沌とした流れが、嵐のように渦巻いている。 

それが知りたい。でも知ることができない。深く潜りたい。でも潜ったときには死んでいる。 









だから地下鉄は似ていた。 

全ての頭脳には境界線があった。 

ほとばしるものだけが飛び越えてくることができる。 

ただ飛び込むのは、死を意味している。 

だから人間は禁止する。でもぼくには禁止がない。だからぼくの考えは死んでいる。 

すべての人間が裸で歩き、全ての人間に対して身体を許して、殺されることも許して、愛されることも許したら、それがぼくの望む世界だなんて、いつもそんなこと考えて、勉強もしないで、嫌なことから逃げて、口ばっかりで、約束も守らないで、仕事もしないで、そのうち人をめちゃくちゃにしたりして、やがて布団から起きれなくなって、26になった。 

誰を汚しても、誰に汚されても、寝てても、天国はやってこなかった。なるほど。さてじゃあどうする? 


奇形の頭脳が形を作り出すとすれば、出来上がった粘土はいつだって奇形で、それが世界を変えるなんてことはありえないことだ。 

作り出された思考は、君の話を聴くためのチューナーみたいなもので、君を洗脳するラジオじゃないのだった。 

だとしたらぼくは未だに粘土のこね方を知らない。 
君の話を聴かずにただ面白がってこねていただけだ。 

できあがったやつが剣なら、面白がって君を刺す。人を刺せるくらいホンモノそっくりに作る才能だけはある。 

さてじゃあどうする? 






女の人ってどうしてあんなに贅沢がすきなんだろう。 

子宮があるからかしら。おいしいご飯を食べさせて、お腹の中に眠る子のためにストレスない生活を送るのが、女の人の人生の目的なのかな。 

そうしたら、いい曲かけたら100ぺん死んでもいいなんて考えてるぼくは、永遠に女の人に理解してもらえないだろうな。 

人生の目的のはっきりしない男の子が、法律を作って、鉄道を走らせ、絵を描いて、戦争を始めて、愛を歌って、大きな塔を建てて、やがて神様を怒らせて、世界は四分五裂した。その神様も、ふらついてる男の子が作ったんだろう。 

男というカルマから逃れられないなんて、言ってることがまるで女みたいだ。 

だけどそんな考えすら、作られた粘土なんだから。まともにとる必要なんてない。 

まともにとる必要もないものを、どうして作る必要があるんだろう。 

しばらくの間、金のシールをつけられて、教室の端っこにかざられたぼくのティラノサウルスは、1週間もしないうちチリが積もり、誰かが蹴ったサッカーボールにあたってぺしゃんこになった。 

あるいはそのティラノサウルスがこの世界を作っているとして、それにぼくも君も苦悩させられたり、感覚すら作られてしまっているのだとしたら、ぼくは自分のティラノサウルスで、誰かが作ったティラノサウルスにかぶりついてみるべきなのか?正気かい?だってどっちも粘土なんだぜ? 








プシューとドアが開くたび、新鮮な朝の空気が閉じた世界に吹き込む。 

とり立てて乗り込む人もいないまま、再び扉はしまっていく。 

また自閉症になっていたんだ。 

朝はぼくを開かせる。でも、日の光のない夜に、どうやって開けばいい?まだそれがよくわからない。 

結局のところ、相手を傷つけたり、自分を傷つけたりする心配のない、呟き程度の言葉しか、怖くて書けなくなってしまっのだとしたら、それは悲しいことなのかすらよくわからない。 


それともそれこそがあの日ぼくの頬にへばりついた飛沫なのだろうか。 



愛なんて粘土を、こねていいものだろうか。

2010年8月30日月曜日

文読む月日

 トルストイの『文読む月日』は、古今の名言を集めた壮大なアンソロジー。一風変わっているのは、一日一章として、複数の《名言》を並べてみせるところだ。必ずしも有名人ばかりではなく、トルストイの個人的な友人の言葉も含まれていたりする。

 厚さ2cmばかりの文庫全3巻。イチから読んだことはない。
 ふと、本日の日付のページをめくるというつきあい方。
「八月三十日」の箴言の一つ目は。
「人々は全人類の善き生活とは何か、そしてそれはいかにして達成せらるかを知っている。そして知っている以上、早晩それを達成しないではいない」

 間にいくつかあって…最後を締めくくる七つ目はこう。
「人類の前に従来よりも高い完全性の観念が提示されるや否や、従来のすべての完全性の観念は、ちょうど太陽の前の星のように色褪せてしまい、人々は太陽を見ないでいられないように、より高い完全性を認めざるをえなくなる」

 考えがとりとめなくなってる時に、その的を絞らせるようなヒントに出会うこともある。

2010年8月29日日曜日

尺度、あなた、私、お前たち

人間、生まれながらにいろんなしがらみがあって、その中でしか生を営めない時期ってのがやっぱり最初は続く。

母乳を飲まなきゃいけないとか、それだけじゃなくて、人格が形成されるまでは、やっぱり全て最初に用意された環境にほぼ左右される。

それらの中には、如何ともし難い経済事情や、偶発的事故もままあろう。

さらに、形成された人格によって自らの世界を切り取って、規定して、切り開いたとしてもまだ、形成「された」人格がその有りようにおいて絶対のものになりえた事にはならない。

その点、僕ら人間はみんな似たような背景を抱えている。

与えられた生。あなたも僕も自ら望んで世に生を受けた訳じゃない。

だから僕とあなた、を隔てるのは、物質的側面だけかも知れないけれど、きっとそんな事もないと思う。限りなく似た組成なのは、なんとなく分かる気がするけど。


そこで、やっぱり形成されたものであるにしても、あなたと僕を隔てるのは獲得した人格って事になる。と思う。

漠然と、尺度。価値観、みたいな言葉がしっくりくるのかな。

何が好き、嫌い。何かを見てどう思う。云々。

それは歳を経るにつれて、確たるものになっていく。

ように思える。そういうものだと考えられている。

そうでないと、困る。そうあれかしと、切に願われている。

みんなが一様に自らの人格形成の完成は年功序列すると信じたいがために、それは仮定から証明を経ずして定理に据えられる。
否。


見落としてはいけないのは、疑うという事。

敢えて相容れない他者の価値観に曝し続ける事で、それは絶えず形を変え、より複雑に、より深淵に、より理解しあえるものに変成していく。と思う。

それには時間がかかる、場合が多いというだけの事。

無為に過ごして自ずから完成を見るようなものではない。自他に痛みを伴う、いとなみ。

時間の止まった魂を、僕は好かない。

だからきっともうしばらくの間、僕の魂は螺旋を描くようにみるみるめんどくさい、からみにくい、話しかけにくい雰囲気を強めていくのだと、ドラムの拓ちゃんと話していて思いました。

でもなんとなく、最後の最後に決め手になるのは、業という名の何かな気がするのは、あまり胸を張っては言えない。


2010年8月27日金曜日

輪郭特需

日付変わって今日は8月27日2010年。
伝わらない思いはそのままに、決まった光はまた一日分開く。

コミュニケーションをとる とはどういうことか。想像力で他人の想像力を
都合良く想像してばかりだ。

2010年8月26日木曜日

身体を鍛えている















身体を鍛えている。

身体を鍛えることが、私が狂わない唯一の方法であるような気がする。






このあいだ尊敬するバンドのベースのお嬢さんに

「悲鳴はみんな上手いね」

といわれた。




そうか、いつの間にかそうなってしまったのか。








いつの間にか今いる会社ではCOOとかいう要するに副社長になっていた。

仕事をし、バンドをしている。高級フレンチを食べ、ブランドものの服を買う一方、身体を鍛え、本を読み、曲を作る。







そういう生活が、あるとは思わなかった。



パンクバンドをやるには身体を鍛えてはならないし、一生女性に寄生して暮らすのがもっとも美しい型だ思っていたし、

仕事をするなら心身ともに健康でなければならず、ましてや経営陣は立派な大人でなければならないものだと思っていた。







しかし世の中はそんな単純なものでもないらしい。



副社長が鬱で女装好きなバイセクシュアルなマゾであってもかまわないし、パンクバンドのボーカルが、厚い信頼の元にメンバーを統率する有能なリーダーであってもかまわないのだという。




要するに、世の中は私が思うよりよっぽどてきとーで、話にならないほどデタラメにできている。





それは知らなかった。



2010年8月23日月曜日

西日

しばらく、退屈というのをしていないのだけど。

そう考えてみると、あれはすごく贅沢なもののように思える。

最後に時間をもてあましていたのは、高2の夏休みくらいか…。

夏休みの記憶。
夕方、部屋の窓から、なんとなく家の裏の自転車道をながめても
犬を連れた人や自転車をこぐ人が現れるくらいで
それを見ながら、ちょっとどこかに出かけようかなと
おこづかいの残りを計算しながら考えていた。

今は
やることも聴くものも読むものも行くところも
会うべき人も、たくさんある。

だけど、そればかりが価値あるものではない。

退屈を妙に賛美するつもりはないけれど
あの中にしかない気持ちというのを
少しつかみたくなる日もある。

2010年8月21日土曜日

言葉が勝つとこころは閉じる

夜を意味する素敵な言葉は虚空を切り裂く冷たい空気、氷の結晶のすぐとなりの冷気を纏う、僕の視線に沿って靡く、走る。

鋭く光る、そして虚しい。

正確に穿つ、鏡の中の虚像の核を。


四ツ目

2010年8月20日金曜日

柑橘

 人との関わり方について考え込む。虫の話はキリが無いので書かない。
東海大相模と、親戚の親戚率いる成田が試合をする。日付変わって今日の第2試合。

伝わらない思いはそのままに、今日も決まった光は開きを止めない。2010年8月20日。残暑。

2010年8月18日水曜日

電波があわない

自分で決めたことなのに、決まりとなると途端に駄目なのです。

もう、ぼくは、アホなんじゃないかというくらい、続けられない人間のようであった。

この日記も、ぼくがみんなでやろうぜ!とか言いだしくせに、最近のぼくと来たら、口からエクトプラズム吐き出すように、消沈しきってキーボードを叩く始末だ。

どうやら、意識が無意識に沈み、思いつきが当たり前になる、これが駄目らしい。駄目、というより、眠くなるらしい。刺激が足りなくて脳が休むらしい。現にぼくは今、すごく眠い。

とか、なんとか、言い訳をしている。本当は、ただ単に書くのが嫌いなだけだ。
ぼくは自分の話をするより、人の話を聞く方が、興味がある。




話をするという作業は、自分と相手の周波数が、どうもかみ合わず、コミュニケーションができなくなったときに、相手に自分の周波数にあわせてもらうため、自分の電波を発信するということだと思っている。


ということは、こっちが率先して周りの周波数に合わせてしまえば済む気がする。


というようなことを考えてしまうモードだ。ここ最近は。






1年位前は、自分の周波数を無理やり押し通すことに凝ってて、復讐のうたとかAnarchist's Sunとかそうやって書かれたものだが、最近はふにゃふにゃしてばかりで、悲しんでばかりいる。




ぎんぎんかインポかしかないのだ、ぼくは。






詰まるに極端が問題だ。この世界で一番よくないものは、極端だと思う。
悲しみも怒りも同じくらい大事だし、まじめもふまじめも、どっちも大切なのだと思う。
よく出来てる割にテキトーな世界だし、みんな見てないようで見てる。




そんなに価値ある人間じゃないが、そんなに価値のない人間でもないというのは、イライラするね。
いっそ、神か奴隷にでもなれれば、ラクなのにね。
『君は生きてる価値がない』って誰か言ってくれないかしら。さもなきゃ『君がいなきゃ生きていけない』でもいい。
でも、それだって変わってしまうものね。




さしあたり今は無理そうだから、せめて泣きながら怒るいじめられっこみたいになりたい。ぼくは。


びしょ濡れのお道具箱持って「やめてよー」とか言いながら。



2010年8月16日月曜日

野球狂の詩

甲子園に乗りこみたくて、毎日悶々としています。
残念ながら今年は無理かなあ…。

スポーツを観るのは、なんでも好きです。
いろんな見方があると思います。
どちらかのチームを応援しながら観るのも楽しいかと思いますが
多くの場合、私はどちらも応援していません。
というか、どちらも応援しながら観ています。

7月の末、地方大会の決勝を観て来ました。
西東京大会と、東東京大会。
2日連続、一人で神宮球場に足を運びました。

どちらもいい試合だったのだけど、
関東一高と修徳の試合は、考えさせられるものがありました。

5−3。2点ビハインドで迎える9回裏、関東一高の攻撃。
負けてはいるものの7回裏、8回裏に1点ずつ加点している関東一高が
完全に押している雰囲気。
そもそも修徳のエースは、すでに痙攣の症状が出ていて
マウンドに登っているのは2番手の投手。
関東一高はあっという間に同点に追いついてしまい、
しかも逆転の走者が3塁に。

5−5。9回裏。無死三塁。
守る側からすると絶体絶命に思えるけど、
高校野球で無死三塁は、平常心さえあればなんとかなる状況、ともいえる。

ところが、二番手投手くんは完全に縮んでいた。
そこから、デッドボールを2つ献上。
無死満塁になっちまいました…。

ここで、ようやく監督が動いて、三番手投手を投入。
難しいタイミングだったと思うけど
デッドボール1つ(無死、一・三塁)の時点で交代できるほど
三番手投手の力に信頼性はなかったのだろう。
しかし、さすがに満塁となると、
ストライクが入らない投手をマウンドに置いてはおけない。

無死満塁だって…絶対に点が入る保証はない。
打者有利に感じるけれど、
打者だってかたくなっている。
しかし、さすがに力の差は否めなかった。
内野安打でも転がりようでサヨナラ、の場面ですからね。
打者は、代わりばなの2球目をきれいに外野に打ち返し、
試合は終了した。

あれから、ずいぶんと考えてしまうのです。
自分が、同点にされて無死三塁の場面の、あの投手だったら
どんな気持ちで次の球を投げるか。
あるいは、無死満塁でいきなりマウンドに登らされたあの投手だったら、と。

低い可能性でも、勝機はあるはず。
冷静さと、策略と、慎重さと、運を呼びこむ思いこみが必要だ。
スポーツを観ていると、そんなことを考えさせられます。

私は高校野球好きというよりは、すべての野球好きです。
甲子園大会には、地元のチームや常連の伝統校を応援する楽しみや
トーナメント戦ならではのカタルシスがあると思うけれど。
8月末から始まる都市対抗(社会人野球)でも観に行こうかなあ。
去年まで高校野球やってた名選手は、プロや大学ばっかじゃなくここにもいますよ!

ちなみに、甲子園大会を観に行くならば
私が一番好きなのはベスト8が出そろう3回戦あたりです。

多くのチームが「目標は全国制覇です!」というけれど
ホントのところは「ここまで来れただけでラッキーだなぁ」と思ってるチームだっているわけで。
3回戦あたりだと、思いがけず1つないし2つ勝ったチームが
「ひょ、ひょっとして…オレたち行けんじゃね!?」
と、ワクワクしてるのぼり調子が感じられて
試合の間隔がこんでくる疲れも感じさせない
エネルギーがびしゃびしゃ出てる気がするのです。

書いてるうちに、やっぱり行きたくなってしまった!

2010年8月15日日曜日

すてきな3にんぐみ

シティボーイズ。

WOWOWで初めて観たのも10年以上前の事です。

あんまりシティボーイズって言ってもご存じない方もいらっしゃるのでしょうか。

でも大竹まことは知ってるよね。

きたろう、大竹まこと、斉木しげるの3人が、僕にとってのすてきな3にんぐみです。

今回はシティボーイズの話です。


と言っても、あんまりコアなファンじゃないんで、そんなに詳しくは知らないんですけど。
今年はもう結成31年目になるのかな。すごいです。

初めて観たのは高校生一年生か中学三年生くらいの時、WOWOWで、4夜連続で深夜に特集組んでたんですよね。たまたま観ちゃった第1夜、斉木しげるナイト。
アハーンさんがあんまりにも面白くて、慌ててビデオに録画しました。アハーンさんは泣く泣く録画を見送って、でも次のアヤムラのおばさん、チャーシュー泥棒をつかまえる以降、4夜かかさずテレビにかじりついてました。

当時の僕の語彙、主にツッコむ時の語彙は、全て大竹まことから来ています。間とか、今でもそうなんじゃないかしら。別にお笑いでプロになりたいと思った事はないけど、ただ素晴らしかったから。

この時のビデオは何回観たか覚えてないです、多分30回は軽く越えてると思います。斉木ナイト、きたろうナイト、大竹ナイトの予定だったのにノットファウンド、最後は真空報告官P。


好き嫌いはあると思うんですが、去年父親がわざわざ送ってくれていた録画されたDVDを先日観て、板の上に立つスタンスと、思いみたいなものの片鱗を知る事が出来てとても嬉しかったです。

僕個人としては、大竹まことに一番共感を覚えます。
他人と自分の隔て方が、多分同じなんじゃなかろうか、と思います。
一見強面で冷たそうですが、多分優しい人ですよね。

無知である己、に対して常に謙虚さを忘れずにテレビの前に立ってると思います。

2009年のシティボーイズミックスの舞台で出演されていた若手の、最後の舞台挨拶を見たのですが、その覇気のなさと、それに対する大竹の叱責は、若い世代の自分としては、こう見られる、こう評価されるのだというとても苦いですが勉強になるなと感じました。

板の上に立つという事、何かをお客の前に披露するという事において、かなり先を行ってるので、やっぱり勉強するつもりで観ていたいと思うのです。

斉木しげるの絶対的な斉木しげる個人としての存在の仕方、きたろうの才能とそれを自ら裏切るトチりと、この3人のアンサンブルはブランキー以上です。

何かしらの方法でご覧になって頂きたいと思います。


ところで一番近いライブは9/5、東高円寺UFOクラブです。

悲鳴は悲鳴にしか出来ない事を、出来るようになるために存在します。
それは表現だけで終わらないもの。

僕らをもっと見て下さい、とお願いします。


2010年8月13日金曜日

画面を一瞬覆うこの黒い幕はなんだ

先程スタジオから戻りました。電車はよく遅れます。
今日は体が重く、難しい時間でした。駅には、まだ卵鞘を抱えたGがひっくり返って死んでいました。

ラジオ今週末です。
放送日 8/14(sat) 21:00〜22:00
再放送 8/19(thu)23:00〜24:00
周波数は78.7。小田原から遠い方は、サイマルラジオというのでリアルタイムでのみ、
聞けます。http://www.simulradio.jp/
詳しくはこちら→elephant http://odawara-elephant.com/
聞いてみてください。

帰りの電車の中。飛び込んできたクマゼミが一通り車内を暴れ回った後
足元で仰向けになって、ピタ と止まって絶命した。カチコチだった。
ちょうど決まった光が一日分開き終えた頃。
今はもう2010年8月13日。夏も折り返し。

2010年8月11日水曜日

女装と果実とUSTREAM






全裸で日記を書いている。なぜだろう。


一昨日USTREAMをしてみた。景気付けに女装してみた。なぜだろう。


まったく。よくわからない自分に付き合わされるのがたまらない。おかげさまで日々眠い。






なめらかに白いこの身体の中央部に突起があるって変なことだ。
奇妙な果実ってこれのことだ。


流線型になって透きとおりそうな気がするね。
きっと新しい時代がやって来るのだろうね。








とにかくこの不思議な生放送の仕組みはわかったので、今度はスタジオから演奏でも中継してみようと思います。


せっかくメイド姿になったのだから、誰かに奉仕したいなー。

2010年8月9日月曜日

音楽め

たとえばジャケットや曲のタイトルなどを見て
「あ、このバンドは絶対に好きだ」とわかってしまうことがある。
でしょう?
音楽だけじゃなく、本や映画にしても。

一方で「こういうのは、自分は好きじゃなさそうだ」と思っていたのに
聴いてみたら、ものすごく好きになってしまって驚くことがある。

聴きながらも、
「その言葉の選び方」「こういう雰囲気」…
〝好きじゃない要素〟を具体的に数え上げることさえできるのに、
それをガンガンはね返す、
今すぐ理由を言葉にできない
何かの魅力にねじふせられる。
数えきれない要素によって成り立つ
《音楽》の複雑さと底知れなさを思い知る。爽快!

そういうことに出会えるから
偶然の出会いがある場所には行ってみるものだ。

「なんだか、かっこいい」
「なぜだか、また見たくなる」
その気持ちだけでも十分だけど。
…音楽をやる者として?
…一介の理屈っぽい人間として?
…言葉を生業としている人間として?

魅力のありかを言葉にしてみたくて
ぐるぐる考え続ける
ライブハウスからの帰り道。
楽しい。

2010年8月7日土曜日

桃が食べたい

スーパーなんてそうしょっちゅう行く訳ではないですが、桃が並ぶ時期なんですね。
桃の香りはそのまま幸せの香りです。
きっと幸せを匂いにしたら桃の香りになるんだと思います。

生きているので、たとえ結構生活が苦しくても、旬のくだものは毎年一つくらいは、食べておくべきですね。

あまりにおいしくて、童心に返ってはしゃいだりします。

食べ物はなんでも好きです。食べた事ないものは分かりませんが今の所、好き嫌いはありません。

毎食必ず手を合わせていただきますと言います。

おいしそうに食べると誉められた事があります。意外でしたけど、言われてみれば食べ物には素直にまっすぐ向き合っていたような。感謝の気持ちを忘れる事もなく、残さずいただきます。

おごっているように聞こえていたら済みません。当然の事だと考えています。

人だとこうはいかないですね。それもそうですが、残念な気もします。


旬のくだものを食べる喜びは、生きてるうちで3番目以内には入選するくらい素敵な事です。野球で言えばノーアウトなのに2ベースヒットで塁に出たくらいのテンションです。

ではまた来週です。林

2010年8月6日金曜日

安心

かなり多くの事がこの数日間起こりました。
整理が追いつきませんが、更新日をとっくに過ぎているので半ば強制的に。
  

先日、FMおだわら elephant presents 象の小規模なラジオ の収録に行って参りました。
番組の後半に、悲鳴(プチ)特集というかたちで取り上げていただいております。
僕はスタジオ、ガンディは電話で談話、こずえさんはコメント(音声)、はやーさんはweb上でのコメント(音声)、とそれぞれ参加させていただきました。
放送日    8/14(sat) 21:00〜22:00
再放送    8/19(thu)23:00〜24:00
周波数は78.7。小田原から遠い方は、サイマルラジオというのでリアルタイムでのみ、聞けます。http://www.simulradio.jp/


暑い日が続きます。毎朝セミの声で起きるのですが、いや、これあまりにうるさくないか
と思ったら頭の横にいました。いつの間に!朝から窓の外にセミを全力でブン投げる、一日のスタートはそんな感じですわ。と、裏山の一本の木に驚く。僕の身長の倍くらいしかない小さな木で幹も細いのだが、ミンミンゼミのみが、数えられただけでびっしり43匹もモゾモゾしていた。あわわ

なにがなんだかわからないが決まった光が一日分の開きを終えた。
明日は2010年、8月7日だ。