2010年8月29日日曜日

尺度、あなた、私、お前たち

人間、生まれながらにいろんなしがらみがあって、その中でしか生を営めない時期ってのがやっぱり最初は続く。

母乳を飲まなきゃいけないとか、それだけじゃなくて、人格が形成されるまでは、やっぱり全て最初に用意された環境にほぼ左右される。

それらの中には、如何ともし難い経済事情や、偶発的事故もままあろう。

さらに、形成された人格によって自らの世界を切り取って、規定して、切り開いたとしてもまだ、形成「された」人格がその有りようにおいて絶対のものになりえた事にはならない。

その点、僕ら人間はみんな似たような背景を抱えている。

与えられた生。あなたも僕も自ら望んで世に生を受けた訳じゃない。

だから僕とあなた、を隔てるのは、物質的側面だけかも知れないけれど、きっとそんな事もないと思う。限りなく似た組成なのは、なんとなく分かる気がするけど。


そこで、やっぱり形成されたものであるにしても、あなたと僕を隔てるのは獲得した人格って事になる。と思う。

漠然と、尺度。価値観、みたいな言葉がしっくりくるのかな。

何が好き、嫌い。何かを見てどう思う。云々。

それは歳を経るにつれて、確たるものになっていく。

ように思える。そういうものだと考えられている。

そうでないと、困る。そうあれかしと、切に願われている。

みんなが一様に自らの人格形成の完成は年功序列すると信じたいがために、それは仮定から証明を経ずして定理に据えられる。
否。


見落としてはいけないのは、疑うという事。

敢えて相容れない他者の価値観に曝し続ける事で、それは絶えず形を変え、より複雑に、より深淵に、より理解しあえるものに変成していく。と思う。

それには時間がかかる、場合が多いというだけの事。

無為に過ごして自ずから完成を見るようなものではない。自他に痛みを伴う、いとなみ。

時間の止まった魂を、僕は好かない。

だからきっともうしばらくの間、僕の魂は螺旋を描くようにみるみるめんどくさい、からみにくい、話しかけにくい雰囲気を強めていくのだと、ドラムの拓ちゃんと話していて思いました。

でもなんとなく、最後の最後に決め手になるのは、業という名の何かな気がするのは、あまり胸を張っては言えない。


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