生きているということは、物語を紡ぐことに他ならない。
少なくとも、僕にとっては。
人であることを、最期まで呪うだろうし、それはそのまま、人であることを最期まで感じ続けることだと思う。
それは恵まれたことかもしれない。
それはのたうち回るのに近い。
それは嘔吐のイメージ。
よくよく心に留めておくべきこと。
あなたが必要。
あなたが、ひつよう。
この寂莫。
azrq
無事終了しました。
来て下さった方、有り難うございました。
楽しめてたら何よりです。
今回の出演者には感謝してもしきれない。素晴らしい演奏でした。
まめッこ
(((REBELREBELonREBELREBELS)))
壊れかけのテープレコーダーズ
それぞれが決してベストな条件でない中、それでも参加してくれたお陰で出来た事。本当に有り難いです。
ありがとうございました。
今回のライブを最後に、ドラムのカワセは悲鳴から抜けます。
追ってホームページなどで正式にお知らせしますが、略式に一応報告です。
もう見られないのなら行っていた、事前に知らされていれば、という思いの方、もしいらっしゃったら、申し訳ありません。
メンバーで話し合って、あくまで普通にやろう、特別な扱いにしたくないという意見で一致したため、こういう形になりました。
今後の悲鳴にご期待下さい。
SEはエイミー・マン。マグノリアのサントラ。
林
朝、遅くも早くもない朝。
なのに、
空が、金色。綺麗な。だけど見慣れない空。
雲がどんより出ている、筈。
そういう朝は、にびいろだと思う。
一瞬遅れて気がつく。
あれ、金色のあれは、雲間から零れた光だけじゃない。
投影されている。
文字が。
見覚えがない、文字。
大きな光が、金色をした光が、近づいてきて、光と窓を開けた僕との間にたちこめる雲には、一面に見たことのない、たぶん文字。
その雲の奥の奥から、這い寄るたくさんの影、影。
あ、終わった。
地球終わった。
人類終わった。
勘違いする余地も冗談にとる間もなく、意識が書き換えられる。
僕は家族のいる居間へ駆け寄る。
ごめん、もう駄目だ。地球終わった。
どうして?問うのも愚かしい。
とにかくおとなしくしていろ。
もうすぐ船が壁を突き抜けて、僕らの家は侵される。
それだけで済ませたい。
幸い荷物はまとめてある。妹にはなんだかすまないけど、シャワーを浴びる時間はなくなっちゃった。
確実に人間より格上の何かたちが、家畜を狩るような感覚で、小屋の鶏から朝卵をとっていくような気楽さで、こちらへ来る。
ほんの少し、相手の立場になるだけでいい。僕ら人間が、豚を屠るのに、その豚が毛繕いを済ませているか、親に、子供に、最期の別れを告げ終えたか、気にするだろうか。
だから、自覚してしまった。
ヒトとしての生を、終えたのだと。
実際どうなるとかじゃない。
葛藤はなかった。
恐怖もなかった。
ただ、認識が、書き換わった。
これからどうなるんだろう。
だけどこの感覚は、不思議と気持ちを軽くする。
少し、すまない気がする。
だけどこれから絶望することより、これまで背負ってきた絶望感から解放される浮遊感を、否定できない自分がいる。
そういう思いがないまぜなまま、目が醒める。
本当に予期しない、いい夢だった。マヤ歴はたしかに終わった。と感じる。
四ツ目
「怒るのにはエネルギーが要るからえらい」とか「相手を思ってこそ」云々…というきれいめのまとめじゃないですよ。
最近あまり怒る人を見かけないから
絶滅しないか心配だね。
てのは冗談としても。
怒ることすなわち暴力、みたいに思われがちな傾向はあると思う。これが嫌い
怒りはただの怒り。
それ単体で、正義でも悪でもない。
あ、ここです。ポイントは。
正しいこと言えるかはともかく
怒ったっていい。
怒鳴ってもいい。
その感情を、
表したり表されたりすることから
始まるものがある。
…っていう話をして
前に「あなた昔の番長ものマンガみたいだね」と言われたこと思い出したわ!
KOZUE
ただ言葉を失う。
事物を見据え、考える
醒めていくよりも、壊して。
蘭のありようには、ただもう驚くばかりで。
そういう何かに、辿り着きたい。
azrq
今年で7回目となる高円寺の秘祭
「日本ロックフェス」に出ます。
10/16(日)〜10/23(日)の8日間ぶっ通しイベント。
おそらく日本でいちばんスリリングなライブハウスで行われる、カオスな祭であります。
出演者とか詳細はこちらで。
↓
◎日本ロックフェス公式ブログ
http://blog.goo.ne.jp/nihonrockfes/
各日1000円+1ドリンク
(全日見られる通し券\3000も予約受付中)
土日は15:30 OPEN&START
平日は18:30 OPEN&START
悲鳴は10/20(木)のトップです。
特攻(※もちろん"ぶっこみ"と読む)心が 騒いでならぬのです。
何が出るかな…
カオスという言葉もだいぶ手垢がついたけど、それでも日本ロックにはこの言葉を冠したくなる。
狂熱に似たものに、興味はない。
喜んで臓物を浴びにいくなんて茶番。
本物の感情を
××したいです。
私が欲しいのは恐怖と笑い。
KOZUE
絶望が、人を変え、成長させる?
例えば溺れている人間が、
この危機を乗り越えた後の事など、ちらとでも考えると思うか?
馬鹿なこと。溺れている現実を打開する事で頭が一杯になるに決まってる。
絶望する瞬間には、何もない。
希望的観測、未来の展望、それらがないから、絶望という。
たまたま、過ぎ去る場合があるにすぎないのだ。
もしくは、絶望であったのは人間のおめでたい頭の中のみであったか。
呑まれれば、しぬ。そういうもの。
生きることがなんであるか、問い続けるのは楽じゃない。
答えが出ない事も、解っている。
要するに、それを忘れていられる程、満たされたがっているということ、
餓え、渇き、焦がれているということ。
じたばたするのも、時には。
苦しむのは嫌だ。
寂しいのは嫌だ。
是とならない自分が嫌だ。
小ささすら知ろうとしないこと
昏いということ
業にしては、本格的だと思わないか。
あたまがぐらぐらするのは勘弁してほしい。
このまま病気と認定されては敵わない。
いくつもの、感情を蔑ろにしてきて
今さらそれを持て余す。
笑止。
続く
虚、azrq
稀に、美しすぎるとかカッコよすぎて
聴くのがしんどいくらいのがある。
聴いてる間じゅう往復ビンタくらわされっぱなしとか、
息を止めて水に潜ってるみたいな感じ。
聴きながら「痛い、痛い、もうやめて」って思うこともある。
…という精神状態をも含めて
「楽しい」と受け止められる
《感情》のすごさを思う。
いまさっき、久しぶりに
怖い夢見て起きてしまったのだ。
暗く恐ろしい夢。
こういう時は
明るく楽しい本を開いたりせずに
もっと怖くなる本でも読んだらいいんじゃないかな。
怖さをもって怖さを制す!
KOZUE
鳥は何を感じて鳴いたり飛んでったりするんだろう。
虫はどこを目指して歩いたり走ったりするんだろう。
蜘蛛はどんなとこでどんなことを考えながら寝るんだろう。
虫に生はあるのだろうか。
虫は機械に似たようなものではないのか。
馬に生はあるのだろうか。
馬は機械に似たようなものではないのか。
肉牛に生はあるのか。
食われる生?
豚の食われるための生?
機械と考えた方が、無理がないように思う。
まだごく若い猫が、昨日車に轢かれて死んでいた。
僕が見た時は血が流れた跡がなくて、寝てるのかと思ったけど、よく見ると頭のかたちがすこしおかしかったので、もう事切れた後で、きっと工事現場の人か誰かが動かしておいたんだろう。
電柱のそば、人が踏みそうにない場所に。
工事がなかったら、轢かれずに済んだのだろうか。
まだ若いのに、不注意だったね。工事の音や光で、よく状況が飲み込めなかったのだろうか。
どこへ行くつもりだったのだろうか。
少し悲しいと思った。
少し禍々しいと思った。
ついてきたりしないように、手を合わせたりはしなかった。
だけど少し、ついてきてもいいんだよと思った。
心の中で手を合わせた。
死んだ猫は、止まった機械と同じではないか。
生きた猫は、動く機械と同じではないか。
人間は、機械と同じではないか。
僕は、機械ではないか。
呼吸や、食事や、交接は、仕組みではないか。
魂は、仮想された器官ではないか。
細胞は、機械ではないか。
癌は、機械ではないか。
幻聴が聴こえる。
ずっとピースって言ってる。
azrq
お前がそれで、いっときを永遠に感じるなら。
その感覚と瞬間を共有できるなら、
僕も同じだけ、時間を失おう。
価値観を歪めよう。
識をなげうとう。
醜い醜い醜い醜い醜い醜い精神を、忘れよう。
先送りにして責め苦はあとで。
ところが、ところで、雷に打たれて死ねよ、と思う。
そうだ雷に、打たれて死ねよ。
四ツ目、azrq
一番おもしろかったのは3回戦、
習志野VS金沢の試合。
習志野の…甲子園では初登板だった2年生、在原くんの投球に魅せられましたね。
対する金沢のエースはプロ注目の、
150キロ出しちゃう本格派。
在原くんのストレートは130キロ台だけど、100キロ程度のスローカーブとの
絶妙の配球で打ちとってみせるのが小気味よい。
さらに、ときどきスピード計測できないくらいおっそーい、山なりの球も効くんだよね。みんな、おもしろいくらい見送っちゃうのだ!
まさに相手を翻弄する組み立てで、
早いリズムでぽんぽん放ってくる。
バッターが「ちょっと待って」とボックスを外す場面も多々。
ところがランナーを出したり
カウントが悪くなると
見てるだけの私でさえ焦れ焦れするくらい、間を長くとってくる。
主審が何度も、ときにかなり激しい口調で
「早く投げなさい」と急かしてた。
高校野球ではあまりない光景。
しまいにゃ塁審まで「さあ、いこーか」なんてやんわり促したりしてね。
彼はその調子で投げ勝ってしまうのですが。
自分のペースをつくって
力を出せる環境をつくる戦い方ってものを
見せてもらった試合でした。
あの図太さは尊敬に値する。
素直にまっすぐいくばかりが真っ向勝負じゃない。
KOZUE
それはやはり自分のためにとしか、言いようがないのでした。
それよりも浅い、口上に過ぎない、いかにも耳に、徳義心に心地よいせりふもやはりたくさん浮かびはするし、それも強いて嘘なのに、と思い込もうとするつもりもないのですが、
最後にはやはり自分のために、としか言いようがないのでした。
あなたや、あなたは、違いますか。
なんのことを、そんなこと私の知るところではあり得ない。
その代わり、きっとあなたにもあなたにも、思い当たるふしがあり、それのことをさしているのには違いない。
実に半年振りの、浮遊感。
世界から距離をとることは、意外にも窮屈ではなかった。
けれども満足をくゆらせる魂には、足がない。
空虚な肯定はしない。
ただ、見つめ、感じ、考え、形にしようと試みる。
その選択のすべてに、誤りはないと、すべてが正しい道であると。
もし問うてくれたなら、そう答えると決まっている。
止まる歩みは存在しない。
総ては無駄でいられない。
悲鳴はしばらく人前に出ませんが、次やる時の音を聞けば、きっとそれは必要なことだったと、感じられるようになろうとしている。
四ツ目
皆さんはコミュニケーションてなんだと思いますか。僕は錯覚できた瞬間だと今は思います。僕はあなたの事なんて知らないし、分からない。でも勿論、わかりたいと思う人もいます。違いを認め合いながら、わかり合えないと分かっていながら、それでも伝え合う。その努力の途中、時々『あ、今つながったかもしれない』とか『伝わったかもしれない』と感じた時、それをコミュニケーションというのかな。
ということで。テレビと、一方通行の思いを共有した気でいる切ない片想いの話でした。
kawase.
桜木町の退廃が好ましいと感じたのは、自分としては発見でした。
動物園に行くのも随分久し振りの事で、生き物を間近に見るとてもシンプルなわくわくする気持ちを楽しませて頂きました。
同時に、関係のない部分で、私という人間が刻々変化していくのを感じます。
言葉にあらわすのはむつかしいのですが、知ること、予想することの意味を教えられた思いです。
個人的にはまだ少しどたばたする日々が続きますが、私という人間が存在する重みが、少し認めうるものだと思い始めた次第です。
ヒトのありようは和音。
構成も、複雑さも、響きも、
届かない事に絶望するのは、まだ少し早い。
四ツ目、azrq
闇とはいかにも抽象で、つまりなんの事なんでしょうか。タブーの事でしょうか。
僕個人としては、内的情動はすべて闇と同じ意味にとらえてしまいます。
あなたが感じる事は僕には闇です。
僕の心臓のからくりは闇です。
脳科学はまだあてにならないと感じます。
ヒトが繰る言葉で繋がりや仕組みを説明されても、それらの言葉はいつもあまりに脆いから。
それにそもそも茂木某は不粋極まりないからです。
語るに落ちる人物評はやめにして、
僕のここで言う闇を見つめる時、闇は僕を見つめてはくれないと感じます。
不安や怖気の事を闇に置き換えても、しっくりこない。
そこにある事は、知っているし感じてもいる。
けど、繋がれない。という感覚が拭えない。
こういうもののような気がする。
きっと時間が経つにつれて感じていた違和感は、このあたりの認識の違いから来ている気がします。
少し整理がついたかもしれない。
調子、というものはどうしてもあって、その表出の仕方が一人ずつ違うから、安心できる奴もそうでない奴も、
扱いやすい奴もそうでない奴もいる。
一時的な調子も、長い期間に及ぶ調子もあるといえばある。
原因と結果は同じ事象の内的作用と外的作用の差でしかないものだから、
入れ替わり立ち替わりする。
見て、考えて、行動する。
変化しうる事を、受け入れる。
そは人間、うつろい易いもの。
四ツ目、azrq
歩き回った距離は少しですが、なんだか福岡を思い出します。
天神の傍にマリノアがあるみたいな感じとか。
いろんな感覚が、悪くないと思いました。
暇をもて余した結果2冊本を読み終えたのはショックです。そもそも、もっと時間掛けるべきです。
1週間とか。本に悪い気がした。
魂にも、出来不出来があって、感性にも、差があって、感じ方が違う、というより、その深度が違う、と直感するのは、とても恐ろしい。
ともあれ、充分に充実した休暇であった事は疑う余地がありません。
海辺には思い出がたくさん。
自動で呼び出される感覚。
いろんなとこに、いろんなものをおきっぱなしですね。
四ツ目
複数の方から今までで一番よかったと言って頂けました。
有り難い事です。
個人的には、身体が自由に動かせた感覚が初めてしました。
とても気持ちよかったです。
あと、アンプが頑張ってくれました。
毎回リハで、アンプと相談しながらその日の音を決めるので、アンプは生き物のような気がしています。
同じJCでも具合がかなり違うし、特に僕はアンプに負担掛かる音を出してる方のような気がするので結構気を遣います。
あと、心のなかで話しかけてます。
でもこういう人多いと思います。
どんな人間でも、気持ちの浮き沈みはあるし、それでも誰かを勇気づけようとして、何かの形に残してくれる人がいる。
それだけは忘れたくない。
その恩も、いつかは返したい。
今回は特に、王貞治選手、ジャッキー・チェンに感謝と敬意を込めて。
写真はクウチュウ戦小林コアラ。次のライブ以降活動休止だそうです。
林でしたおやすみなさい。
先は長い、深い。言葉にならない位。
例のKが見られてよかったです。
ヒトとして抑えがたいものをなんとかしようとする姿勢が、見ていて心強いと感じます。
どうやらクリスマスイブに何かやらかすみたいです。
クウチュウ戦は今回は惜しくも跳びきれてなかったけど、やっぱり力のある連中です。
もともと大好きなのを差し引いても楽しかった。満足しました。
他者の事はそれとして、7/10に秋葉原クラブグッドマンでライブやります。
世間話は苦手。
言葉がついてきてくれない。
置物、ぬいぐるみ。
ヒトのように会話は成立しないけれど、会話なんて成立しなくて構わない。
モノにこころは通わない。
その方が都合がいい。
ヒトの精神は、いつも勝手に僕の神経をなぜて通り過ぎていく。
力場が生まれる。
そこにあるだけで。
会話がなくても、そこにいるだけで。
それを知覚する苦痛のない、モノとのやりとり。
全部厭、という事ではなくて、そういう時間はありがたい、と思う。
おんもは刺激が強うございます。
楽しめない性格は枷に違いない。
だからこそ必死になれる事もあるのではないか。
四ツ目
ミクシとかどこそこの掲示板とか。
殊顔の見えないとこで見かける印象。
位相の事が分かんなくて調べてたけど無理でした。ちんぷんかんぷん。
けどこんな僕でもミックスやるんですよ。悲鳴の音は基本僕が監修します。
そろそろ出る2月26日の企画の記念盤的なものでは、クウチュウ戦の音も僕がミックスしました。
理論の話は分からないから、本当に感覚だけでやります。
プロの方々には鼻で笑われても仕方のないクオリティに違いない。
でも僕プロじゃないし、今はそういう知識、多分要らない。
脱線しましたが、何が言いたいかっていうと、
音の話をする時は、正しい日本語を使うこと、謙虚な態度で伝える努力をすること
この二つをまず踏まえないといけないと思うって事です。
音キチに特に多いですが、自分の耳と感覚を大切にするあまり、そうでない素人、というか大多数の普通の耳を持ってる普通の人を、あまりに下に見る態度で接する感じがするのです。
ひけらかす為に得た知識じゃなかった筈だろう、そんなことにしか使えないのならもう捨ててしまえよ、と思ってしまいます。
だってそれじゃ分かり合えない。
音の話だけでなく、コミュニケーションってそういう側面を少なからず持ってると思います。
傷つけるための言葉に耳を傾けてくれる人なんていない。
音って目に見えないから、相手とどこまで共通理解を持ててるのか、すごく分かりにくいので、それだけに相手がどういう人間かも見えてしまう気がします。
PAって大変。
ですからどなたか今度僕に位相の事を優しく教えて下さい。
林
北杜夫という作家がいます。
本物の躁鬱です。
「どくとるマンボウ昆虫記」とか「どくとるマンボウ航海記」などのエッセイが一番有名なのかな。
「夜と霧の隅で」「楡家の人々」など純文学もものしてますが。
ユーモア文学的な作品が、めっちゃおもしろいんです。
中でもこの人が躁病期に書きとばしたと思われる作品の、異様なほとばしりが好き。
「父っちゃんは大変人」とかね。
困ったな。書いておいてなんだけど、堂々と北杜夫文学の代表みたいに推薦するような本じゃないんですけどねぇ。
いいオッサンが急に独立国家つくるとか言い出して日本にいながら独立宣言してその国の代表としてオリンピックに出ーる、と無理矢理出場してオリンピック会場のプールで溺れる…とか。ほんと、しょーもないんだけど。
思いつきでぐいぐい行く推進力にひかれます!
夏を待つ
KOZUE
個人的には、ようやく本調子に戻った感がありました。
どうやればいいか、もう忘れずにいたい。
雨。
6月は5、6がライブです。
下北沢スリーと、高円寺UFOクラブで。
8月3日にともぐい企画にまた出させてもらえる事になりました。先ですが是非。
スクリアビンピアノ協奏曲嬰へ短調作品20
林
『もっと鋭く、もっと遠くへ。』王貞治
王さん関連の書籍はかなり持ってるけどこんなの初めて見た!
あとで調べて、これはペプシコーラが昭和53年にプレゼントの賞品として作った非売品だとわかった。
野球を志す少年に向けて、バッティング技術と野球に取り組む上での心構えがていねいに、まっすぐな言葉で書かれていて。
野球に限らず、だれにも通ずる言葉に満ちている。
バットの音を聞こう。
目で打つ。
気で打つ。
素振りは毎日、欠かさずに。
体は小さくても、ホームランは打てる。 僕には、王流。キミにはキミ流の打法がある。
燃やせ、ライバル意識。
チームメイトへの思いやり。
攻撃精神。
素質をいいものにのばす、努力。
自分に負けた。今度は勝つ。
…以上は、ページごとの見出しの一部。
どれもシンプルな言葉だけど、見出しだけ見てもいろいろ考えをめぐらさずにいられない。
!
王さん!
KOZUE
そうでない人も勿論たくさんいると思う。
どうして、そんなに悲しいことにばかり目を向けて、そこから動こうとしないの。
そうしていたいの、それも分からないの。
何をなすべきか分からないの、生きているべきかも、分からないの。
それは、必要なことなの。
例えば分かれば、動けるの。それともそれでも動かないの。
それとも分からないと分かっているから、そこでうずくまっているの。
私になにができるの。あなたはなにをしているの。
なにがあなたを生かしているの。
この問いは見当はずれなの。
確かなものをなにかひとつでも掴んでいるの、それはあなたにとっても私にとっても同じ意味と大切さを持つものなの。
差し伸べる手、差し伸べられる手、それをどうしたらよかったの。
azrq
それはオシロで見える波のように。
感受性も、命のやりとりも、それぞれがそれぞれに抱える波形の中で、
それぞれを取り囲む波形の中で、
辛うじて繋がり、結びつくもの。
自然と起こるものもあれば、奮い立たせなければ起こらないものもある。
嘆息を禁じ得ない、が、それは絶望とは遠い。
脇目も振らずにもがき苦しめる事にこそ、驚嘆に価する奇跡があると、なぜ思えないのか。
雪合戦のようなもの。
結晶は寄せ集められ、固められ、あなたに投げつけられ、砕ける。
四ツ目、azrq
よしなしごと、誰とも目を合わせないのに、
周囲に丁度届くくらいの声量を保ちながら、
何事か、ぼやかして、
話題を投げて、着地させないで、
とにかく、呟き続ける。
私は此処に居ります、と。
僕に聞き取れたのはそれだけ。
きっと伝えたい事すら、何なのか分からないでいる。
電車の中にいたおじさん。
胡座をかいていたおじさん。
泣く男、の、最後の1ページが思い出される。
どれ程多くの魂が、救いを求めずにいられないでいるだろう。
存在を歪めずにいる事は、並大抵ではないと思う。
けれど存在を歪めてしまったら、その先その魂は、一体誰のものと言えるのだろう。
恐怖の先行する脳は、考える事を圧迫する。
希望の先行する脳は、考える事を強制する。
心臓をかっ捌いて、その血が鮮やかに真っ赤であれば、どんなにか安心できるか知れないのに、
大抵いつも、真っ黒な思考と隣り合いに、この身に流れる血が赤か黒かさえ、確かめる術を持たない。
ダミアヌス、何事か訴え続ける中年、ネットに何事か綴る私やあなた。
15日、新宿LOFTにてライブです。
azrq、四ツ目
とてもあたたかい企画でした。主催の石井さんの人となりの為せる事だと思います。
古い友人に会えたのは嬉しい事でした。
誉めて頂けたのは本当によかったです。ありがたいです。
精進せんといかんです。
来週金曜日は新宿MOTIONで、
再来週金曜日は新宿LOFTで、
また演奏する機会を頂きました。
せないかん事は多い。
足りない足りない。
先日のイベント、実録処女ゲバゲバの一回目の音源や映像も動いています。配布なり販売なりする折は、是非。
味気ないですが、このへんで。
林
欲しいものが判然としないなら、明確に自己の存在を定義できない事に怯えなければならず、不幸です。
こう言ってしまうと、大体ある程度誰しも不幸のような気がする。
勿論、大体ある程度誰しも不幸なんだと思う。
最終的に行き着く答えは、欠伸が出る程真新しさに欠け、自分でも呆れる。
価値観は違って当然で、数の理論に基づいてそれぞれにヒエラルキーがあてはめられるのも当然。
それはそれでも決して受け入れる事ができない。
最後の最後まで、自らがよしとする何かを求めるのをやめてはいけないし、最後の最後には、常に折れずに自らの核を為していなければならない。
疑う事も理解しようとする事も、そこへ行き着く。
azrq